襦袢・ダブレットの語源や起源 襦袢を下着扱いするのはスーツの上にワイシャツ着る様なもの
和服の長着の下には汗除けの機能を持つ物として着られる肌着、または下着とされる服飾が昔からある。
小袖もその一つであり、七~八世紀以来は下着の扱いとなった。
江戸後期頃には四ツ手と言われるX状の下着も生まれた。
そして今日に至るまで長くその座を席巻するのが「襦袢」だ。
この襦袢は本来は南蛮服であって、日本での歴史は複雑な事になっている。
では襦袢とはどこから来たのか。
実は中東の服飾文化が起源である。
昔、中東に進出したヨーロッパの軍団がジュッバ(جبة)を見て鎧の下に着る「鎧下着」として使用した事が始まりとされる。
この時に「ジュポン・ジポン・ギュポン・ギポン・ジュボン・ジボン・ギュボン・ギボン」等と呼ぶ様になる。(以前はギャンベゾンとも言われた)
その後、戦争も終わり平和になった後の軍人達は「着脱の簡便さ」という機能性からこのジュポンを普段着として使用するようにもなった。
ジュポンが城の門番の正装として着られる様になったとも言われており、軍人である貴族も正装として用いた。
武勇性を誇示する為に、鎧を着込む為のジュポンでないに関わらず鎧を付ける為の紐が装飾として取り付けられた例もあるとの事。
これにより、ジュポン以前の衣服のチュニックは廃れていく。
そしてジュポンは時代を下ると、英語圏では「ダブレット(doublet:裏地付き・二重の意)」と呼称され、今日の軍人の制服・スーツの発端になったとされ、フランスではジュポンの総称として「プールポワン」というジャンル名が決められた。
ヨーロッパ全土に広まったプールポワンはポルトガルにも知れ渡り、日本にも「南蛮服」の一種として渡来してきた。
そしてポルトガル語の「gibão」が訛り、「ジバン」と文書に書かれる様になる。
当時の日本の流行では本来上着であるジバンを、わざと下に着て小袖の襟から立ち襟を覗かせたファッションスタイルが流行していた。
伊達政宗もこのスタイルだった。
そして何時しかジバンに当て字が宛てがわれ「襦袢」という当て字が付いた頃には、すっかり日本では下着扱いとなった。
さらに贅沢な服飾に対する規制も激しかった為か、立ち襟が無くなり殆ど小袖と変わらない形状の「襦袢」へと変質した。
今で言う長襦袢や肌襦袢等は面影は全く残っておらず、名前だけの品である。
下記の襦袢は時代が分からないが原型に近い。
しかし戦闘服に於いては機能性が優先された事や、死装束としての側面から贅沢を許された為か「具足下」という鎧下着となってその形状が伝統されている。
鎖帷子の形状もこの「ジバン」に鎖を縫い付ける物が多く、機能性重視の状況では廃れる事無く寧ろ発展した側面を持つ。
中世ヨーロッパでも鎧下着として普及した服が、日本に伝来しても鎧下着としての役割を担う様になるという、数奇な運命を辿る事になった。
下記の鎧下着は下着の襦袢の原型を思わせる垂首型式のもの。
襦袢の形状については甲冑の「襦袢籠手」なるものがあり、襦袢の筒袖を籠手にした形状が伝統された。
ここからも証明される通り、現代において襦袢と称される物は全くの別物である。
因みに襦袢と同じく「合羽」も伝来した「capa(ケープの語源)」が、上位身分の武士より下位身分の商人の方が贅沢な合羽を着ていた為、武士の嫉妬を買ってしまい禁止された。
懐中合羽(紙製に桐油塗の折畳み式雨具)・半合羽・長合羽等が使われる様になるが、この内の半合羽長合羽の二つはジバンの袖を広袖にした形状であり、南蛮服であるジバンの影響が残った。
着物の上に着る雨具ではあるが、武士身分以上のみが長合羽を着る事を許可され、武士身分以下は着る事を許されない身分差別が横行していた事もあり、半合羽しか着れなかった。
この合羽は江戸時代に歌舞伎の「忠臣蔵」において早野勘平の妻、お軽が合羽を道行で着ていた事から「道行」と俗称される様になって今に至る。
被布と言われる貴族の服に似ている事から「被布」とも俗称されていたとの事。
言葉の変換に関してはこちらのブログで細かく語られており、とても為になるので是非。
おまけ
すごく珍しい袖なので驚いた。
きっと貴重なものでしょうね。
参考:遠藤武 南蛮伝来服飾考