着物としての襦袢・具足下・鎧下着・鎖帷子・合羽・陣羽織

タイトルにある通り戦国時代に南蛮から伝来した品に影響を受けた当時の日本人が作り出した新しい和服についての話。

戦国時代と言うのは特に合理性が求められる時代だ。

何故なら理不尽な生殺与奪が蔓延るため、文字通りの生存競争に負けない工夫や思想が発達する。

戦争によって医療技術等が発展する現象と同じだ。

 

そこで当時の南蛮に影響を受けた服という物に着目している。

 

如何に殺生が盛んな戦国時代と言えど日本の支配者層は「伝統」に傾倒する「保守派」であったため、合理的な思想は皆無に等しくしきたりや常識に従うためなら自殺し、他にも強要・同調圧力をかける存在だった。

織田信長が後世において評価されたのは「合理的・論理的な人物」だった為だ。

一方、保守的な今川義元は、当時の権威的誇示を意味する輿に乗って出陣した。

 

この様に保守的な伝統主義の影響は服装にも及び、服飾文化発展の妨げとなった。

 

しかし南蛮貿易によって齎された文物はこれを一変させた。

 

そして日本服飾文化の根幹に相応しい形式へと発展していった。

それが

襦袢・具足下・鎧下着・鎖帷子・合羽・陣羽織

これらの服飾文化だ。

 

南蛮から伝来した物を真似て作った着物が多々あるが、葡萄牙・西班牙の立体裁断は全く採用せず、曲線裁断にとどまった。

その意匠は日本在来服飾と同じの直線裁断に落とし込まれた。

恐らく高温多湿な日本では体に密着する立体裁断が肌に合わなかった為であろう。 文字通り。

そして独自の発展を遂げ、日本文化の一端となった。

 

しかし前述した様に日本の支配者層は保守的で、その筆頭とも言える徳川幕府は「質素倹約」を唄い文化発展の妨げとなった。

現に上級身分の正装とされる服飾は江戸265年の歴史の中で殆ど変わらず、幕末ではその不便さから襲撃に対応できない事を理由に裃以外の服装すら許可する程、未発達な文化のまま発展する事無く消え失せた。

 

合理性を蔑ろにし、伝統性を重視した保守派はどうなったか?

その保守派代表とも言える呉服業界は風前の灯火だ。

 

そして保守的な着物を着ていた女性は関東大震災で瓦礫の下敷きになった。

何故?

着物の動きづらさが原因だと言う声が後を絶たなかった。

結果として和装から洋装への転換期となった。

 

もしも当時の日本で襦袢・具足下・鎧下着・鎖帷子・合羽・陣羽織などを正装とする文化が根付いていればどうだったろうか。

長袖者と謗りを受ける事もなく、合理的な服飾文化として発展していたと思う。