明治時代の「大久保利通の葬儀」と「日本が喪服を黒に変えたきっかけ」 最悪なマナー違反と何でもアリな現代喪服の実情
喪服というのは礼装に於いて最も重要視される衣装とされます。
使者に対する冒涜を許さない事が目的なのでしょうか、現行法では墓に乗る事が違法とされていたり、葬儀の進行を妨害する事が違法とされています。
それほど死者に対しては礼節が求められます。
ではそんな礼服についてはどうでしょうか?
現代では葬儀会社等が葬送の礼節を自社サイトにて語っていますが、喪服の色に対し「黒でなければならない」と「黒じゃなくてもいい」と言っていたりして、言論が違う事も見られます。
なぜ意見が分かれるのか?それは「西洋化以前の日本では喪服が白かった」という問題があるからです。
日本の伝統文化を捨てて西洋文化を選んだ
一番上に記載したレファレンス協同データベースにて答えが書いてありますが、要点だけかいつまむと
「日本の伝統文化を辞めて西洋化する為」
という答えになります。
江戸時代までの日本では白い喪服でしたが、次の明治時代では日本文化を廃する動きが活発化して西洋文化に変えようと言う思想が強まっていたのです。
その一環として白い喪服をやめる事になったのです。
こういった伝統文化の排斥は有害な伝統文化(生贄など)を消したりいい影響もありました。
しかし喪服の色は無害な伝統文化ですからやめる必要はありません。
こういった戦時ヒステリーに似た排斥運動の影響で、文化的自殺行為をする国は数多くあります。
しかし考えて頂きたいのですが、前記の通り「法律で決められている礼節」なら「法的拘束力」で守らなければならない「法律」です。
ではその法律で決められていない礼節は守る理由がどれほどあるでしょうか。
マナーの四つの基準と最悪なマナー違反
マナーという物は形式がある物ではなく、その場にて誠意と最善を尽くす礼節を指す言葉です。
その基準は四つ。
「衛生観念」
「法律」
「宗教戒律」
「伝統文化」
上程重要な基準となります。
然るにこれらと関係がない喪服の色を決めつける等はただの同調圧力、即ち「強要」に他なりません。
故に「悪質」な手段と言えます。(場合によっては土下座強要の様な違法になりうる)
そもそもマナー違反と言うなら、他者の服装等という無害な事に文句を付ける事が一番最悪なマナー違反です。
考えても欲しいのですが
故人と親しくしていた外国の方が自国文化の喪服で参列しています。
しかし貴方が持つ現代日本人の価値観では、彼の喪服は派手に見える事から「喪服に相応しくないから出ていけ」と難癖を付けてしまいました。
しかし彼はこう反論します。
「これは私達の民族として礼節ある喪服だ。他国の異文化を認められないと言うなら、なぜ貴方は日本人なのにスーツと言う他国の服装をしているのか?それは貴方の心にある、我々の民族の様な「自らが知らない異文化」に対する差別意識に他ならない。」と言った論いでした。
そして彼は葬儀の妨害をしたのではなく、難癖を付けた貴方が妨害行為と判断されて葬儀の場から出される仕儀と相成りました。
つまり、安直に文句を付けてはいけない。という事です。
貴方が考える「そうしなければならない」という思想の正当性は証明できますか?
貴方が考える「間違っている」という論いは正当性が証明できますか?
雰囲気や空気、同調圧力や素人の多数決による強要の正当性は証明できますか?
礼節の基準として上記の四つが参考になればこれ幸い。
個人の自由である「信仰の自由」や「思想の自由」を忘れずに
我々日本人は今、伝統文化でもなければ由緒が正しい訳でも無い礼節を正しいと思い込んでいます。
葬式というのは厳密には「儀式という文化」でしかありません。
即ち義務では無いので、無宗教者・反伝統文化思想の人々には「信仰の自由」「思想の自由」等を尊重して、無理に従わせてはいけません。
死者の遺言なら叶える理由にもなりますが、違うなら喪服の色程度は問うべきではない。
現行の社会通念上の葬式を伝統文化と扱うには、成立背景である「文化的コンテクスト」を無視した「間違った無礼な振る舞い」である点が多すぎます。
くれぐれも「伝統文化だから」と言う理由で他者を従わせるなら
「対象者の思想の自由を侵害していないか」
「伝統文化である証明は可能か」
上記の2つに気を付けましょう。
葬儀の妨害は違法ですが、参列者の白い喪服に間違った言説で難癖を付けたら「葬儀を妨害したのは貴方」という事にもなりかねないでしょう。
因みに昔は法律で礼節が決まってました。
下記の葬儀会社サイトでは「法規制された作法をやめなかった」という話を記載されています。
こちらでは派手な振り袖を喪服としていた葬儀の話など記載されています。
余談
さてここからは個人的な思想です。
私個人の考えでは「喪服という服でなくても参列していただけるだけありがたいので、失礼と扱うべきではない」と考えております。(多数派の拒絶と強要NGを踏まえて)
現代の喪服が黒くなった理由が、如何に間違ったルーツであるかは上記の通りです。
そして日本の伝統の宗教や伝統文化としての葬儀に、洋装で参列する事が無礼に当たるのは伝統の戒律や伝統文化が基準になる為です。
しかし現代では
伝統文化も宗教戒律も無視した服装が喪服扱いされ、
雰囲気や空気と言った物で礼儀が決められ、
専門家でもない素人のデカい声の強要で礼節を決められ、
伝統文化と詐称して自作の捏造マナーを売りつけるマナー講師が氾濫し、
礼儀作法もマナーも適当に決められているのが実態です。
ならもうなんでもアリじゃん。
そう思うのは教養があればこそでしょう。
衛生観念と法律に問題が無く、宗教戒律と言った規則や伝統文化としての文化性も捨てた現代の喪服と、フランクなTシャツGパンに何の違いもありません。
服装如きは好きに決めれば良いと考えています。
なので黒い喪服が着たい方も、白い喪服が着たい方も、タンクトップと短パンが着たい方も、立襟の襦袢と袖合羽が着たい私も、各々勝手に決めれば良いと思います。
そんなの間違っている!なんて今更何を仰る兎さん。
現代の喪服なんてほぼ全部間違いですよ。
そしてその間違いを受け入れているのも貴方ですよ兎さん。
マナー・礼儀作法を決める正当性がある基準4つ 嘘マナーを認めると自作マナーも認められる正当性がある
マナーや礼儀作法と言った他者に対して礼節を示す言動は、明確な基準がある訳ではありません。
ですが最低限の破ってはいけないルールとして法律等があるのですから、全く基準が無いとは言えません。
そこで明確な基準として4つ挙げる事ができます。
「衛生観念」
「法律」
「宗教戒律」
「伝統文化」
上記の4つを基準とすれば、まず間違いはないでしょう。
そしてマナーを決める基準にしてはいけない事もあります。
「素人判断」と言った要素を持つ「同調圧力」です。
下記にて優先する順に解説します。
「衛生観念」
衛生観念は最優先項目となります。
というのも人命にも関わる点ですので、最も重んじるべきである事は言わずもがな。
これは基本的に衛生観念の専門家である、医師や研究者の方々に意見を仰ぐべきでしょう。
下記の法律は最優先ではなく二番目です。
理由は後述します。
「法律」
法律は対象範囲内に於けるルール、規則ですから優先度は高いのですが二番目です。
読んでいる方の中にも「なぜ法律が最優先されていないのか?」と疑問に思われる方もいらっしゃると存じます。
しかし「悪法もまた法なり」等の法律では対処できず、最悪の場合では人命を脅かす事もありますので最優先は衛生観念と考えられます。
しかし二番目に重要なのも事実です。
日本の現行法ではマナーに関する法律はあったりします。
「墓の上に乗る事は違法」
「葬儀の信仰を妨害する事は違法」
等、意外にも法規制があります。
そう言った意味では法律はマナーを作る際に目を通すべき物です。
ここで衛生観念を最優先にするべき架空の事例を示しておきましょう。
葬儀の最中に駆け込んできた人が葬儀を中断させた。
法的には妨害行為なので通報しようかとも考えたが、
「近くの工場で有毒なガスが流出したので避難指示が出ている」
という旨である為、罪に問うべきではないと判断された。
この様な事態が発生しては法律は二の次とするべきです。
こういった事態も想定した上で、衛生観念を最優先するべきなのです。
「宗教戒律」
宗教戒律が重要視されるのは、あくまで信徒に対してのみです。
無宗教者や無神論者と言った方々も「信仰の自由」の内である「信仰しない権利」で宗教に所属してない訳です。
然るに戒律の作法を強要する事は、強要罪等の罪に問われる可能性もあり二番目に優先される「法律」を違反するマナー違反となります。
しかし宗教葬等の葬儀に、個人の権利と判断(他者に強要されてない状態)で赴いたのであれば、宗教葬の戒律に従うべきではあるでしょう。
どうしても従いたくないのであれば退席する事です。
さて、ここで宗教戒律より法律を優先する理由を解りやすく解説する為、架空の事例で証明しておきましょう。
とある伝統宗教の葬儀の戒律にて「故人の遺体を山に放置し、野生動物に食べさせる」と言った旨がありました。
しかし「死体遺棄」等の罪に該当した為、禁止する命令が下されました。
と、まぁ実にシンプルなものです。
宗教は法律や衛生観念から作られている訳では無いので、戒律が法的に禁止されたり、衛生観念からドクターストップがかかる事もあります。
然るにさほど正当性がないのです。
これは下記に記す「伝統文化」の項目と、ほとんど変わらない理由です。
「伝統文化」
伝統文化は衛生的な訳でも法的拘束力がある訳でもなく、ただの「続けられてきた習慣」でしかありません。
「思想の自由」として尊重する正当性はあれど、反宗教思想の方が宗教関係の行事に赴いておきながら従わないのはマナー違反と言えます。
ここで架空の事例で解説しておきます。
故人の意向で宗教葬の葬儀が行われる事に対し、参列した一部の人々は
「この地方ではこういう作法があるから取り入れよう」
と伝統文化を取り入れようとしました。
しかし葬儀を任された宗教家(僧侶や神父等)は
「この宗教では戒律で禁止されている作法です。そして今回の葬儀はその戒律の宗教葬ですから、取り入れる事はできません。」
と却下しました。
この様な事態を考慮すると、微差程度と言えども優先度は「宗教戒律」を優先するべきと考えられる次第です。
まぁこんな事は滅多にないと思います。
しかし宗教行事の戒律で指示された戒律ならば従うべきでしょう。
しかし「なぜ伝統文化が基準として挙げられるのか?」と疑問に思う方もいらっしゃる事と存じます。
簡単に言えば「衛生観念と法律を除けばマナーは文化(習慣)そのものである為、基準として伝統文化は正当性として扱われる」という事になります。
伝統文化は従わずとも法的な罰則は無いし、従う理由が無いのです。
しかし衛生観念と法律にのみ従い、
宗教戒律に対しては「無神論者だから従わない」とし、
伝統文化に対しては「従う理由も義務もないし反伝統主義だから従わない」とする。
この様な場合だと「マナーも何もしない」という事になるのです。
前記の通り最低限以上のマナーは文化でしかないので、反伝統文化主義の方は何もする事がありません。
最低限の事はやっているのでマナー違反でも悪い事でもありませんが、割と退屈なのです。
退屈に耐えかねて「やっぱ何か選ぼう」と言う人も出てきます。
しかし衛生観念と法律は従うとしても、宗教戒律は嫌だ。 という方には伝統文化ぐらいしか基準の選択肢がないのです。
どちらかと言うと妥協点に近いです。
上記4つ以外に基準がほとんど無い
「他にもマナーの基準はあるんじゃないの?」と考える方もいらっしゃると存じます。
しかしほとんど無いんです。
と言うのも「マナーは文化そのもの」である為です。
衛生観念による人命の尊重からマナーが決められ、法律でマナーが決められるのは強い正当性があるからです。
しかし宗教戒律と伝統文化は従いたくない人は「信仰の自由」と「思想の自由」という従わなくともいい権利と正当性があります。
宗教に抵抗があるのは「破戒僧」にも代表される通り、数多くの方が信仰を拒みます。
そうなると「伝統文化から都合の良い所だけ採用する(長所だけ遺して短所は廃す)」という方法しか残っていないのです。
伝統以外の文化で決めるとなると、大半が嘘マナー由来です。
ビジネスマナー等と言っても由来を辿ると失礼クリエイターが作った嘘マナーだったり、一部の界隈が作ったマナーを持ってきただけだったりします。
そんなマナーで許容されるなら「自作したオリジナルマナー」を許容する正当性にもなる、すなわち「なんでもアリ」状態になるのです。
衛生観念と法律に違反しない程度に暴れる事ができる「自作マナー」を作ってしまえばやりたい放題です。
故に最低限程度の基準に認められるのが「伝統文化」という訳です。
それでもマナーを新しく作るおつもりの方は参考にどうぞ。
貴方だけのマナーとなるか、多数の人が従うマナーとなるかは民意次第です。
基準として扱ってはいけない要素
ここまで「マナーを決める基準」を解説しました。
しかしこれらの基準を無視したマナーを作り出し、世にばら撒くマナー講師が存在するのが実情です。
そして大変迷惑な存在が「間違ったマナーを正しいと誤解して人に強要する人」でしょう。
着物警察なんかが代表例です。
そこでここから先は「マナーを決める基準として扱ってはいけない要素」を解説しましょう。
「素人判断」
これが禁止要素です。
正当性が低いです。
簡単に解説しますと「知っているつもりで素人が勝手に決める事」は大半の界隈でタブーとされます。
知らない訳ですから判断が間違っている可能性が高い。
衛生や法律の専門家にも相談して決めるべきでしょう。
素人が勝手に決めていいなら全ての人が自分でマナーや作法を決めて、上記の様になります。
失礼クリエイターや嘘マナー講師とはこの様な素人なので、カモにされない様に注意しましょう。
余談
ここまで述べた仕儀は「マナーを決める基準」と「マナーを決める基準として扱ってはいけない」という旨であり、「〇〇するのがマナー」と言った旨の言説ではありません。
そして失礼に対しても言及している旨の記述もある程度書いたので、私も失礼クリエイターと他者から呼ばれるかもしれません。
礼儀作法は文化である事が多い為、異なる文化の地では礼節と扱われない事もあります。
そういった問題もある為、これからも問題視され続けていく事になるでしょう。
着物の礼装に「襦袢」と「合羽」があれば楽に着られる・着物マナーは嘘マナーとして作られた
着物のマナーは面倒臭い。
そんな風に考えられ、市場規模が衰退するばかり。
面倒臭いのが事実なのだから仕方ありませんが、その面倒臭いマナーを撤廃しないのが一番の問題です。
私はその撤廃の一環として「長襦袢になる前の襦袢を礼装とすれば楽に着られる」という提案がしたい訳です。
襦袢の由来
まず襦袢に対し「着物の下に着る服」と考えてる方が多いのですが、少し誤解です。
襦袢の日本での歴史は
一 室町時代の南蛮貿易で南蛮服「ジバン」が伝来(ポルトガル語であり、ヨーロッパ全体に普及していたプールポワンと総称される服)
二 ジバンを着物の下に着て、着物の襟からジバンの立ち襟を覗かせる服装が流行
三 その後、着物の下に着る「インナーウェア」に当たる服は全般的に「襦袢」と総称する様になった
という経緯があります。
つまり「長襦袢」はあくまで襦袢の一種です。
下着という誤解が広まっていますが、ブラジャーやパンツ等の下着とは全く文化的コンテクストが違うので下着ではありません。
今回論うのは戦国時代頃の「伊達日記」等に書かれている「じばん」です。
立ち襟があったという襦袢、これがどんな着物か知らない人が多いのは仕方ありません。
伝統されず断絶したのです。
厳密には「陣羽織・鎧下着・袖合羽・襦袢籠手」等の原型にもなっているので、ある程度推測できます。
そこで着物を洗張りで作り直して、立ち襟の襦袢を再現しました。
半袖なのは夏用だからで、実例はありません。
帯や紐で縛らず鞐で留めますので、着崩れもなければ面倒臭さも無い和服です。
これが着物の礼装の選択肢に加われば、楽に着られる和服として着る方も増えますし商品が1つ加わります。
ヨーロッパでのジバンの歴史
ヨーロッパで広く普及したジバンですが、元々はアラブ等の中東で着られていたジュッバが起源の服だと言われています。
それが普及し「白馬に乗った王子様」等が着ている服になっていきました。(英国ではダブレットと言います)
日本では「軍服」と俗称されている服も元々ジバンです。
現代ではスーツや医療従事者のケーシー等になっています。
合羽の由来
合羽も襦袢と同じく、南蛮貿易で伝来した南蛮服でした。
元はカパと言い、ヨーロッパではケープへと変遷しました。
日本では合羽と当て字され、原型に近いマント状の合羽・袖を付けた合羽の二種類に大別できます。
この合羽は正しく伝統されてはいませんが、道行・被布と言われる着物の一種となっています。
そんな合羽の再現品がこちらです。
筒袖なのはドアノブに引っかからない様にする為です。
江戸時代の袖合羽を筒袖にした物です。
上記の襦袢同様、鞐で留めるので着崩れ・面倒臭さ・動きにくさ等はありません。
元々ビジネスシーン等で着られてもいますし、礼装にも向いていると考えています。
誤解されてますが、道行・被布は家の中で着る合羽です。(座敷合羽が正式名称)
屋内ではコートを脱ぐから道行を脱ぐという嘘マナーが業界でも広まっていますが、洋服文化によるミーム汚染なので由緒正しい日本文化とは言えません。
礼装やマナーを勝手に変えていいの?と思われる方へ
結論から言うと「むしろ変えなければならない」です。
その理由を書いていきますが、大変長くなります。
要点だけかいつまんでおきますと、
一 日本文化という国籍が有る文化なので、外国は干渉できない点が多い
二 着物の伝統的なマナーと思われてるのは、昭和時代にフェイクロアとして失礼クリエイターに捏造された嘘マナーである点
三 上記にある様に伝統文化で無いため、文化維持の価値や理由が存在しない
四 健康被害や災害等の問題がある
五 昔の日本と気候や風土等の条件が変わりすぎて、三の様な健康被害に繋がる
六 江戸時代の礼儀作法を再現すると男女や身分の差別が多く、採用するべきではない
という五つです。
長くなりますので「そんな事は聞き及んでいる」と言う方は読み飛ばして下さい。
伝統文化を変える権利は当事者だけにするべき、という思想
伝統文化の大半は国という属性があります。
あの国の伝統、この国の伝統、と言った事です。
そしてこういった文化は国民性に大きく影響します。
その国民性を決める文化が「外国の影響によって歪む」という点が問題視されたのは、もう随分昔からです。
昨今は「文化盗用」と言う言葉が盛んに使われていますが、ああ言う事です。
ミーム汚染とも言いますね。
上記の合羽の項でも述べましたが江戸時代が終わり、明治時代になってから西洋化の影響で「屋内で着る座敷合羽が、洋服のコートと同じ扱いになった」というミーム汚染があります。
日本以外でもあります。
例えば「チャイナドレス」は中国の旗袍という服を見た米国人が、アメリカのドレスをデザインする時に中華風の要素を入れて作った。
と言われています。
中国の民族衣装ではありません。
ベトナムではフランスに植民地にされた影響でアオザイという服ができました。
元々ベトナムでも立体裁断は使われず直線裁断が主流で民族衣装が作られていた伝統文化でしたが、フランスが植民地支配した影響から立体裁断で作り出した服です。
伝統文化と扱うには反対の声がある程です。
ネパールでも神の山と言われていたのですが、イギリスの植民地支配の影響で「エベレスト」と改名されたりもしました。
エベレストの件は名前の由来であるジョージ・エベレスト氏が「他国の文化を外国の影響で変えるのは反対だ。」と言う真摯な姿勢を取っていたのですが、ネパール人達が賛成したので変わりました。
これは「文化的自殺行為」と言う現象です。
こういった文化交流問題は世界中で起きています。
日本が影響される事も、影響する事もあります。
こうして「他国の文化に不必要な干渉をするべきではない」と非難される様になってきたのです。
裏を返せば「文化に問題があった場合、改善する権利はその国の国民にしかない」という事です。
なんなら伝統じゃなくても当てはまります。
故に問題点がある現行の着物マナーを改善できるのは、日本人しか居ないのです。
フェイクロア(伝統文化と偽り販売する事)
まず現代に於いて着物のマナーは「これは江戸時代からある由緒正しい作法で・・・」と語られる事が多いです。(私もよく言われます)
しかし実際には「大正・昭和時代の洋装化の影響」で職を失った和装業界関係者達が、マナー教室を開いて情報商材とした「嘘マナー」である物が大半です。
そのマナー教室というのが「着付け教室」です。
不自然に思いませんか?江戸時代には生活の一環として着られていたにも関わらず、着るのに時間がかかり、やたらと面倒臭い、なんてのは生活の弊害にしかなりません。
しかし着付け教室は「生徒から長く月謝を取る」という方針で「複雑で理解が難しい為、長期間通わなければならないマナー」を作り出す方へと向かっていきました。
故に面倒臭い・複雑・解りづらい。
そしてやたらと金がかかる。
こういった経緯から、当時の失礼クリエイター達が嘘マナーを作っていきました。
それが現代の「和装マナー」の由来です。
最悪なのは和装業界全体が被害にあっている点でしょうか。
この嘘マナーが面倒臭いといった理由で客が離れ、着物全般が売れなくなったのです。
これで「伝統文化だから守らなければならない」は通用しません。
なにせ伝統文化ではなく、ヤクザ者が情報商材詐欺の為に作り出した捏造なのですから。
業界の大物でありながらも動いている方はいます。
コロナ禍の和装業界で唯一、株価が上がり続けた「きもののやまと」の前会長:矢嶋孝敏さんは著書「きもの文化と日本」で「形骸化しているのでやめようと提言しているが、中々浸透しない」という旨を記されています。
実はもう業界の大御所たる人が嘘マナーを撤廃する動きを見せてらっしゃるのが実態なのです。
伝統文化を守る理由を解説
この「伝統文化」なのですが、よく聞くのは「なぜ守らなければならないのか?」という疑問です。
時代ごとに保全する理由が代わっているのが複雑ですが、現代では「過去の事例といったデータとしての価値」と「伝統文化に高い金額を使う客層がとても多い」という二点になります。
それぞれ解説します。
昔は「伝統された手順とは間違えた手順を踏むと問題が起こるかもしれない」と恐れられた
まだ科学が発達していない昔。
人類は「なぜ我々は生まれ、死んでいくのか?」と言った疑問だらけでした。
その中には「なぜ病気になるのか?」等も含まれます。
細菌など知る由もない人達は何も解らず、何であれ先人達の経験談である「こうしたら病気にならなかった!」といった「経験則」で判断していました。
これが伝統文化です。
この「経験則に従えば良いのかもしれない」と考えた事から伝統が発生します。
勿論、この伝統には迷信も含まれますので本当は意味がない事や、むしろ悪化させる等の悪弊が多いです。
しかしそれが判る様になるのは科学が発展してからです。
なのでとりあえず続けてしまい、現代にも伝わっていたりします。
現代では「お金になる」という理由が強い
現代では科学が発展して上記の様な習慣に対し「意味がない伝統文化はもう辞めよう」と言う動きが、世界各地で広まりました。
人命にも関わるので当然です。
しかし無害で有益な伝統文化も有る訳ですから、こちらは「なにかに使える可能性がある」と言った理由で保全されてます。
そして有益な使い方として「観光収入」という大きな利益が作れる事です。
伝統文化とは言い換えれば「その国・土地でしか味わえない本物」なので、国の内外を問わず遠い道のりを越え、大金が払われる事が多く、大変な利益になるのです。
その為にフランス・イタリア・スペイン・クロアチア・チェコ・スロバキア・ハンガリー等々・・・多くの先進国は伝統文化保全に観光収入で得た公金を割いています。
なんなら後進国だって割いてます。
日本も勿論やってますが、この国の伝統文化は過剰に神聖視されすぎるきらいから「伝統文化はただ守るだけの為にあるのであって、金の為に使う等言語道断!」という声も根強いです。
その為、保全に割く公金が集まりにくい点が課題となっています。
帯による健康被害・動きにくさによる被災
一番重要なのが「関東大震災」です。
実はこの大地震が日本の洋装化のきっかけでした。
和服の動きにくい点が原因で、逃げ遅れて被災した人々の意見が洋装化へと向いたのです。
やはり「着物が足に絡まって逃げ遅れそうになった!」とかの意見もあったのでしょう。
馬乗り袴で走ると解りますが、片方の足がもう片方の筒部分に引っかかったりして転びやすいのです。
後ろ回し蹴りなんかでも引っかかります。
洋装化の後は上記の如く、失礼クリエイターの嘘マナーが氾濫しましたし、業界は三分の一まで縮小しました。
これでハッキリしてますが「着物の礼装に動き易い和服を追加しないと、業界の販路が狭まる」という事です。
そして健康被害の話です。
和服の大半は「縛り付ける」という形式で固定する服です。
その為、和服ばかり着ている人は内蔵が圧迫されてドクターストップが出たりしています。
しかし警告しても「そういう伝統ですからねぇ・・・」の一点張りで悪化させている為、医療関係者も「和装業界は健康的な服を作って貰いたい」と苦言を呈する始末。
その他にも正座による関節への悪影響等も挙げられます。
これでハッキリしてますが「着物の礼装の中に締め付けない形式の和服を追加しないと、業界の消費者が狭まる」という事です。
マナーとしても礼節だからと健康被害が出る事を相手に強要するのは違反です。
ティコ・ブラーエの如く内蔵破裂する様な事例からも判る通り、健康被害の出る行為はマナーとするべきに非ず。
昔と違って今の日本は凄惨に暑い
ヨーロッパの乾燥した気候なら日陰に入ると涼しい為、クーラーがあまり普及していません。
だから洋服の様な窄衣型の服装が普及したのです。(窄衣(さくい)は体にぴったりな窄まった服の意味。ダボダボした寛衣の対極。)
しかし東アジアの日本は海に囲まれた土地柄故に、湿度がかなり高い上に気温まで上がっています。
窄衣である洋服は今の日本に合いません。
帽子は、頭に熱が籠もるので一々脱いで放熱しなければ熱中症の原因になります。
洋服は生地が薄手であっても汗で熱が籠もり、放熱や換気に向いてません。
空調服なんて電動の服が普及する程です。
しかし現状の嘘マナー蔓延る着物の礼装はどうでしょうか?
寛衣である意味がない程に暑いので、熱中症になってもおかしくありません。
補正タオルって江戸時代ありませんからね。
こんな状況では「この国の風土に合った和服を~」なんてキャッチコピーなんて嘘も良い所。
上記でも述べた様に、健康被害を鑑みて通気性を取り入れるべきでしょう。
因みに上記の襦袢と合羽は帯を使わず、笠鞐で留めるだけなので高い通気性があります。
筒袖も寛衣になる様に、通気する余裕があるサイズにしてあります。
和装業界の方には是非とも商品のラインナップに加える由、御熟考して頂きたいです。
本物の伝統文化である「西洋化前の江戸時代の礼儀作法」は差別が多い
最後に「本物の伝統文化を復古すればいい」という意見に答えましょう。
江戸時代の礼儀作法は身分や男女に対する差別が多く、一部を抽出したり参考にはなってもそのまま使う訳にはいかない点が数多くあります。
現代に於いても、茶道の家元が江戸時代の礼儀作法として「女性は羽織を着てはいけない法律があった事」を後世に遺していますが、炎上してしまった事がありました。(厳密にはその家元が炎上したのではなく、家元から教わった人がテレビで炎上した。)
その他にも奢侈禁止令等の法律で禁止された物は数多く、礼儀作法は差別的な内容が多かったのが実情です。
今となっては身分制度がありませんから、その礼法もそのまま使う事はできません。
そして健康に害が無い訳でもありませんから、上に記した健康被害問題も解決し難いのが実情です。
統括
長くなりましたが、襦袢や合羽といった和服が日本文化にも存在していたのは開拓余地になるという話でした。
最早インターネットの発達と普及で、着物マナーの正体が昭和に作られた嘘マナーである事はバレています。
これ以上する意味がないと大御所の意見もありますし、より良くなる様に変えるべきと一人の日本人として一考しております。
しかし変わらない理由として一考するに、「セレブのフリをしたい」という消費者の願望がある点も頷けます。
「セレブをみたいな一流を気取りたくて和服を着ている」という考えの方は多い事でしょう。
わたしはこれを「セレブプレイング」と呼んでいます。
しかしその人達も自分が教わった着物のマナー等が、嘘マナーであると指摘されればいい顔はしません。
一流を気取っても事実を知る人には、騙された被害者と映るでしょう。
そういう意味では被害者を減らす方針を打ち出していきたいですね。