襦袢の歴史や発展から実用性について 江戸初期の人が着ていた襦袢を作って着てみる
襦袢については今まで書いたりもしてきましたが、潜在する優れた実用性のある「和服」として記していませんでした
ここではその「実用性が高い和服」としての襦袢に論います
上記の「gibãoから襦袢への発展」の図説画像は個人・商用問わず利用を推奨します
襦袢の歴史
まず襦袢の歴史として「南蛮伝来」が始まりである事は、避けて通れない話です
南蛮(ポルトガルかスペインかは判らない)から伝来した「南蛮服」の一つが「gibão」と言う服でした
「白馬に乗った王子様が着ている服」と言えば伝わり易いでしょうか?
ヨーロッパ各国で使われた服である事から、フランスではひとまとめに「プールポワン」という総称を作っています
スコットランドの軍人が着ている緑色の服が「ダブレット」と言う種類の服ですが、起源はイギリスのプールポワンにあります。
日本ではダブレットを、俗に「軍服」と呼んでいますね
一節ではスーツの起源となったとも言われる服です
これが日本に来た訳です
襦袢(じばん)と言う名称はもうそのまま「じばん」の訛りですね
しかし「襦袢」と言う当て字の漢字はまだ無く、当時の文書等では「ジバン」と書かれてあります
伝来当初は購入したgibãoを着る程度だったのでしょう
しかし、日本でも作る様になりました
襦袢の形状
ヨーロッパの高度文明でもある「立体裁断」で作られるgibãoが、日本では原始的な「直線裁断」で作られています
www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp
これは縫製技術等の文明差があった事も考えられますが、乾燥して涼しいヨーロッパの気候と違い、日本は高温多湿である事から高い通気性の直線裁断になったのではないでしょうか
留め具の数を見ると通気性を求めていたであろう事は、想像に難くないでしょう
本来gibãoの留め具にはボタンがいくつも使われ、隙間を埋めて保温性が高められています
しかし日本で発展した襦袢は、鞐等の留め具を使って左右合計で四箇所しか留めていません
通気性が求められた為に変容した物と思われます
こうして「南蛮服」と呼ばれていた服から「日本独自の発展」を見せた襦袢は、様々な服に影響を与えます
襦袢の発展
襦袢が日本化した所で、陣羽織や合羽等の服飾文化
果ては鎖帷子や篭手と言った甲冑にも影響が出る様になります
陣羽織は立ち襟が特徴的な物が多く、留め具のボタンや鞐等も目立ちます
特に首元から裾まで折り返された襟がよく見受けられますが、あの部分を戻すとジバンの形状になるのです
これが「陣羽織が南蛮服に影響を受けている」という説の裏付けでしょう
また合羽のルーツである南蛮服の一つ「capa」は本来マントの様な服で、袖はありません
しかし日本の合羽は袖が付いたものが多い
ここから推測されるのは、合羽が襦袢から派生して上着にした物として製造される様になった事です
本来の形状を伝統する丸合羽(坊主合羽とも)等も見受けられますが、それ以外では袖が付いた物も合羽と呼ばれています
しかもその形状は襦袢の袖を長袖者流(和服のでかい袖とかの事)にしただけにしか見えない程に酷似します
そんな合羽は江戸時代の歌舞伎「忠臣蔵」の影響で「道行」と俗称される様になり、着物コートや東コートと言った服へと変容していきます(まぁスナップボタン以外あんまり変わってないけど)
そんな襦袢の形状に最も近いのが「具足下」「鎧下着」と呼ばれる和服です(というかこれが襦袢そのものと思われる)
恐らく襦袢として使っていたのを、そのまま鎧の下に着始めたのが始まりでしょう
それまでは「鎧直垂」という鎧専用の直垂が用いられていましたが、如何せん着脱が不便
鎧直垂が使いづらい事もあって、襦袢を鎧下着として使う様になったのです
鎖帷子を包んだ様な具足下もあり、本格的に戦装束として使われていた事が伺えます
中にはツナギの様な上下一体になった具足下まで発展しました
この服は一応、具足下や鎧下着と呼ばれていますが、当時の資料にはこの様な言葉はなく後世の人が名付けたそうです
恐らく当時の使用者達は襦袢と呼んでいたと思います
「伊達政宗公は鎧の下に立ち襟のジバンを着て~」
と書いてある記録から、私はそう推測しています
腕を守る鎧である「籠手」では、襦袢の影響を受けた「襦袢籠手」という物が出てくる様になります
「襦袢の袖を籠手にしただけ」って感じの鎧です
何でも当時「着脱が容易だから」と言った実用性が評価され、発明されたそうです
この襦袢籠手に本来「襦袢」と呼ばれていた服がどんな形状をしていたかが伝統されています
日本の鎖帷子というとイメージが湧きにくいでしょうが、襦袢の影響から形状も変わった様で「襦袢に鎖を縫い付けただけ」と言った形状の物が多く製造されました
時代劇だと稀に素肌に鎖を着た様な衣装が見られますが(くノ一など)あれは恐らく当時の歌舞伎衣装「素網」のリスペクトではないでしょうか?
歌舞伎に於いては服装の時代考証等は適当だった様で、創作衣装が用いられて作られたと言われます
その為、鎖帷子に見える服装「素網」を用いたのではないかと
因みに名前が襦袢なだけで別物ですが、「網襦袢」という汗除けの下着として網でできた服も江戸時代には有りました
下にメッシュの服を着て、上から甚兵衛着てみましたが、かなり通気性が良い
昨今の温暖化で湿度が上がった日本では復興するべき服だと思いました
しかし襦袢は上記の「網襦袢」の様に、名前だけ使われているのが今日の実情です
襦袢籠手や合羽といった派生系統を残して原型が失われました
襦袢の断絶
ここまで襦袢を語りましたが、ネットで調べても「襦袢の本来の形状」という物は見当たりません
名称を記した物が無いみたいなんですよね
この辺は学者の先生方が頑張ってくれるのを待つしか有りませんが、歯がゆい所です
江戸期頃には「襦袢」という名前だけ使われ、形状はただの垂首形式の服が使われる様になっています
なぜかは分かりませんが、奢侈禁止令とかが影響したんじゃないですかね?
合羽も江戸期に入ってから「庶民が軍人階級より豪華な服を着るな!」と言った感じで、身分で差別して庶民が着る事を禁止したという話もあります
その為名前だけが残ったのではないか、と踏んでいます
襦袢を作って着てみた
しかし実際に当時の襦袢を作って着てみた感想は
「すごく使い易い」
に尽きます
長袖者流の長着や角帯と違って、鞐で留めるだけの襦袢は和服の中で最も着脱が楽ちんです
しかも帯で締めない事から、内蔵にダメージがない
洗濯をするのも簡単で、長くない分洗いやすいです
長着の様な垂首の帯締めと違って、鞐で留めているので着崩れる事もありません
ただ冬は寒いですね、やっぱり
鞐が四つだと懐の隙間風が寒いです
まぁ合羽とか着るからあんまり問題ないんですが
洋服着てるのと大して変わりませんね
襦袢の潜在的な価値
「着物が普及しない」という問題が論われますが、和服の殆どは原始的で未発達な垂首形式の服がベースになっている事もあって、普及は絶望的です
歴史を学ぶと分かりますが、伝統性が重視される「伝統主義」によって、文明として発展できなかったという経緯があります
しかし
①着崩れない様に、留め具を採用する
②着脱が容易になる様に、簡素化する
③動作の邪魔を無くす為、筒袖にする
④体を圧迫しない様に、留め具を採用する。
といった「服の実用性」に基付いた襦袢なら、和服としての歴史も格も申し分ない為、一役買う事になるかもしれません
Tシャツではなく襦袢が普通
なんて言う時代が来たらなぁ・・・とひしひし思わされます